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2010年10月

2010年10月31日 (日)

ムチその3 ~幼稚園時代~

Index 母が集会に行き始めたのは、幼稚園年長組の時でした。年齢で言うと4,5歳です。

最初は、日曜日だけ出席していました。

集会のときも聖書研究のときと同じく、話を聞かないとムチがありました。

とはいえ、45分もの公開講演と1時間に及ぶものみの塔研究は幼稚園児にとっては

長く長く、退屈でたまらないものであることは当然でしょう。

そこで、手遊びしたり、眠ったり、してしまいます。

当時、妹が小さかったため、母親は別の会場(第二会場)で話を聞いていました。

そのときは、山本姉妹が監視していて、話を聞かなかったら、第二会場に連れて行かれました。

そして、いかにムチが必要かを母親に説明され、ムチを受けました。

なんとまぁ、余計なことをするものだと今になって思います。

とはいえ、山本姉妹に直接ムチをされることはありませんでした。

確か、集会に行き始めるのと同じくらいに

「子供にムチをするのは母親の役目」という組織からの指示があったからです。

5,6歳くらい年上の兄弟姉妹によると、集会中に、居眠りしていると、

それに気づいた姉妹が首をつかんで、第二会場につれていき、ムチをしていたそうです。

しかも、ムチをされるまで、誰がムチをするかわからなかったそうです。

ここまで来ると、集団虐待としか言ようがないと今は思います。

そういうわけで、幼稚園児時代は週1回のわけのわからない話を2時間ジーと聞くという苦行をしていました。

しかしながら、集会の前後は、同い年くらいの子供がたくさんいたため、楽しい遊びの時間でもありました。

ただの苦行であれば、トラウマとなっていたかもしれませんが、それと同じくらい楽しい時間もあったから、単なる懐古話で済んでいるのでしょう。

2010年10月30日 (土)

ムチその2 ~外伝~

ムチを導入した姉妹は、母親の聖書研究司会者の山本姉妹です。

山本姉妹はまぁまぁ綺麗で、真面目で、純粋で誠実な姉妹です。

そしてけっこういい胸をしている姉妹です(・∀・)ニヤニヤ。幼稚園時代に触って怒られたこともあります。

1世によくありがちな、自分の人生には特別な意味があるという妄想がエホバの証人の教理とマッチして入信したのでしょう。

そして、エホバの指示=組織の提案と考えていたようで、組織の提案に忠実な姉妹でした。

だからこそ、人の子供に、ムチという強烈な体罰をためらうことなく振るうことができたのでしょう。

少し前、その姉妹が

「最近の若い人を見ていると、自分のしてきたことがなんだったのだろうと思う。」

とこぼしていたという話を聞きました。

意訳すると

「若い人が青春を楽しんでいるのを見ると、自分が若いときに

、青春を犠牲にして組織に尽くしてきたのは何だったのだろう」

ということではないでしょうか。

私の答えは「何も意味はない」というものです。

組織の提案に何も考えずにひたすら従って、

進学、就職、結婚、出産を無価値なものとして捨てた後に残るものは何もありません。

ただ年老いたとき、孤独がつきまとうだけです。

そういうわけで、エホバの証人であり続ける人も、進学、就職、結婚、出産といった人間としての普通の経験をなさることを強くお勧めします。

人として生きていく、当たり前のことですが、大切なことです。

2010年10月29日 (金)

ムチその1 ~ムチの始まり~

0019977192 ムチの始まりがエホバの証人としての人生の記憶の始まりでもありました。それほど強い衝撃だったのでしょう。

母の聖書研究が終わったあと、

「これから悪いことしたらムチだからね」という母の言葉がありました。

黒い硬質ゴムでできた、しなやかなベルトのようなものでたたかれました。

幼稚園時代からムチが始まりました。最初は母親の聖書研究で態度が悪かったときに研究後ムチをされていました。

ムチという体罰に母親は抵抗があったのでしょう。最初は研究司会者が「こうやるのよ」と言いながら、勢いよくたたいてきました。

今思えば大きなお世話というか、暴行罪で訴えるぞ(-_-X)と言いたくなります。

そういうわけで、聖書研究中はひたすらジーとしていました。

とはいえ、幼児にとってはちんぷんかんぷんな話ですから、手遊びしたり、寝たりするのが当然です。

その後は決まってムチでした。

とはいえ、ムチされるのは週に1度ある研究の後にあるかないかだけです。

また、ムチにも恩赦がありました。

上手に聖句が読めればムチ無しというものです。

そういうわけで、必死でジーとする能力、読む能力を伸ばしました。

小学校に入る前から聖書を読めたということは、相当なプレッシャーがムチによって与えられていたのでしょう。

しかし、そのことで皮肉なことにやっぱりムチが有効と言う結論になり、ヒートアップしていったわけです。

2010年10月28日 (木)

ファミコンその3(ラスト)

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鈴木兄弟によって禁止されたファミコンであるが、その頃、多くの母親たちは、ファミコンに対して否定的な考えがあり、ファミコン禁止の家は多くありました。両親が共働きでファミコンOKな家は絶好のたまり場でした。

そういうこともあり、年齢があがるにつれ、ファミコンをやりたいという気持ちは高まるばかりでした。特に、ドラクエなどが爆発的にヒットしたこともあり、学校で話題になっていたため、ファミコンをしたくなりました。
そんな中、正月や、お盆に祖母の家に遊びに行ったとき、いとこがファミコンをしていました。
また逆にいとこが遊びに来たときは、ファミコンをすることができました。
そういうわけで、僕もファミコンしたいと母にねだり、ファミコンが再度出来るようになりました。

母は「悪い影響を受けた」と言ってましたが、もともとファミコンをしたかっただけです。
このころ、鈴木兄弟が引っ越していなくなっていたのもファミコンができるようになった大きな要因に違いありません。
やはり、この会衆は、長老によって雰囲気が変わるものだなぁと振り返ってみて思います。
そんなわけで、ファミコン解禁となり、ドラクエで遊んだりしたのですが、小学校5年くらいのときに、ファミコンが壊れてしまい、ゲームできなくなりました。
その頃、世の中にはスーパーファミコンもとっくにでており、ゲームボーイも流行していました。
そういうことで、私のTVゲーム人生は、ファミコンから、ゲームボーイへと移行するのことになりました。

その話は後ほど。

2010年10月26日 (火)

ファミコンその2

「鈴木兄弟(主宰監督長老)がファミコンはよくないっていったから禁止よ」という母の一言でファミコンは禁止となりました。
「くっそ~鈴木Bめ余計なことを言いやがって」とそのときは思いました。
しかし、鈴木Bが余計なことを言ったというよりも、ファミコンを止めさせたかった母が長老の威を借りて禁止にしたのでしょう。
「ファミコンの何が楽しいの?」と聞いてきたりしましたし。
そういうわけで、ファミコンは小学生1年生のときから3年間くらい禁止となりました。
この3年間は、学校でも、集会でも、適応できなく、母を悩ませる日々となるのでした。
きっとファミコン中止の悪影響でしょう。

子供がやりたい事を、頭ごなしに禁止するとそのひずみがどこかで出るので、私も親となったときには気をつけなければならないと思いました。

2010年10月23日 (土)

ファミリーコンピューター

私が生まれてほどなく、ファミリーコンピューター略してファミコンが発売されました。
爆発的なヒット商品となったファミコンは私の家にもありました。ファミコンが来た経緯はよく覚えていませんが、多分私が、友達の家で見てねだったのでしょう。
その頃はファミコンに対する組織の見解もなく、いや、母親がまだ研究生の段階であったため、普通にファミコンで遊ぶことができました。
とはいえ、その頃の一般的な主婦の考えと同じく、「雨で外で遊べない日」「土日に1時間」というのがルールでした。

普段は公園に行けば友達がいたので、おにごっこ、かくれんぼ、砂遊びといった、子供らしい遊びをしていました。
そういうわけでファミコンは特別な遊びということで、楽しみ中の楽しみでした。
スーパーマリオブラザーズと3もプレイしましたが、当時の技能では最後のクッパまでたどり着けませんでした。
全面クリアしたのは、大学生になって、再びテレビゲームが出来るようになってからのことです。

2010年10月21日 (木)

鯨の肉その2

小学校にあがるちょっと前に商業捕鯨が停止され、鯨の肉が市場に出回ることはほぼなくなりました。つまり高級食材になって学校の給食に出ることなんてなくなったわけです。

「これからは給食で出るお肉を鯨の肉かどうか考えることなく食べられるのよ」と母に言われた記憶があります。小学生の私には、鶏肉か、豚肉か、牛肉か、鯨肉かなんて見ても、いや食べても判断できませんでした。もちろん今なら見ただけでわかります・・・^^;

そんなある日、懐かしのメニューと言う事で給食に鯨の肉が出ました。鯨の肉と夢にも思わなかった私は、おいしいなぁと思いつつ喜んで食べました。

家に帰って母と給食の話になったとき、鯨の肉だったということになりました。

「エホバに嫌われる。どうしよう、~(°°;)))オロオロ(((;°°)~」私は母に泣きつきました。

「知らずにやったことだから謝れば許してくれるわよ。一緒にエホバに祈りましょう」と言われ、一生懸命謝りました。

今思えば、鯨の肉を食べること自体、罪ではないのに、勝手に良心の呵責を感じ、謝ってきた私をエホバは気にも留めていないでしょう。

2010年10月19日 (火)

鯨の肉

日本で商業捕鯨が止められたのは1988年のことです。

ですから、私が幼稚園の時にはまだ、給食に鯨の肉がでていました。

そんわなけで「鯨の肉は食べてはいけませんよ」と母親から言われました。

当然「どうして食べてはいけないの?」と聞きます。

「鯨は大きすぎて吊るして血抜きができないからよ。血を食べてはいけないの」

という答えが返ってきました。

所詮4,5歳の子供ですから、親にこう言われれば納得して鯨の肉を食べませんでした。

当時、鯨の肉は今でいう唐揚げみたいなものでしたから「食べられないからあげる」と友達に言うと喜んでもらってくれました。

そういうわけで、鯨の肉を食べないことと、給食を残してはいけないことを両立させていました。

今であれば、鯨も切って分割すればつるせる。とか、そもそも他の国のエホバの証人は食べているとか、思ってたことでしょう。

そして、表向き食べないことにしていたとしても、給食の時間は誰も見てないので食べていることでしょう、

逆に言えば、幼児はそれだけ純粋だということです。親の言うことを100%真実だと疑ってかかりません。

それだけ幼少期、少年期の親の言うことには重みがあるということです。

それを考えれば、私も親になったとき、子供にうかつなことを言ってはいけないなと思います。

2010年10月17日 (日)

記憶の始まり。

物心ついたときからという言葉がありますが、皆さんは、いつから記憶が始まりましたか?

自分自身の人生の記憶の始まりとエホバの証人としての記憶の始まりです。

私の人生の記憶の始まりは、2歳くらいからです。

「ここ踏んでもいいの?」この言葉が最も古い記憶です。

これは、私が初めて歩いて家から外にでて、道路に引いある白線を見て発した言葉です。

初めて歩いて外に出た時は多分2歳くらいだったことでしょう。

エホバの証人としての人生の始まりは

「これから悪いことしたらムチだからね」という母の言葉です。

この頃は既に幼稚園に行ってたため、4歳だったと思います。

ムチ??と思いましたが、その意味は体で知ることとなります。

この2歳からエホバの証人としての生き方を強要される4歳までの2年間が人生で最も幸せな期間だったかもしれません。25年も前のことですが、記憶を辿ってみるとそんな気がします。

市営住宅に住んでいたため、経済的には中の下くらいでしたが、専業主婦の母親から愛情を一心に受けて過ごした期間でした。

親の愛情、親と共に過ごす時間、幼い子供には何よりも貴重な物でしょう。

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